エッセイ

さよならも言えずに、隻手の声も聞けず

子供の頃は切手を集めていた。保育園から小学校くらいまで。
理由なんかない。あの頃の多くの子供は切手を集めていて、僕もその一人だった。

中学生になってからは、クッキーなどが入っていた宝箱のような鉄の容器を集めていた。
ヨーロッパの貴族のティータイムの様子が油絵で描かれていたような記憶がある。
その箱の蓋だけ取ってそれを壁に飾っていた。何枚も。
あれは何だったんだろう? ヨーロッパの貴族に憧れがあったのかな?自分でもわからん。

大人になってからは、特に30代の後半からは、ガジェットを集めるようになった。電子手帳的なものを、懲りもせず。
今でもこの手のものは大好きだけど、iPhoneが登場してからは、ほとんど買うことは無くなった。iPhoneが電子手帳の全ての機能を備えてしまったので、iPhone以外にとりあえず集めるものが無くなってしまったのだ。

それにしても、50代からは、何かを集めるような趣味は無くなってしまったなあ。
物に執着しなくなったとかそんなことではないと思うけど。
やっぱり歳のせいなのだろうか。

歳をとって、いろんなものが変わっていく

確かに歳をとると、変わってくるものが、いろいろある。
白髪も増えたし、握力も下がった。もう走るのは辛いし、睡眠時間も短くなってきた。
歳をとるということはそういうことなんだろうな。

寒さも暑さも体にこたえてしまう。
特に寒さは風邪を引くことに繋がってしまうので気を使うようにしている。
若い頃は手袋や襟巻きなどは使わなかった。
また数年前までは、これらの防寒具や上下ヒートテックを使うのは、12月上旬から、と決めていた。
12月の上旬に毎年、浜松のお寺の泊まり込みの坐禅会があり、坐禅堂で冷えてはいけないので、そのタイミングで長袖ヒートテックとタイツを着用するようにしていた。数年前までそれで間に合っていた。
が、今は11月になると上下ともヒートテッカーになり、手袋に手を入れて襟巻きを装着する。
寒さにも耐えられなくなってきたのだ。

カップル成立?不成立?

防寒具が手放せなくなってから、新たな問題の発生するようになった。
ここ数年、冬になると連続して発生している問題だ。
防寒具を無くしてしまうのだ。
手袋と襟巻き。本当にごめん、着用して外出し、仕事したりお茶を飲んだり映画を見たりして家に帰ると、無くなっていることがよくある。
よくあっては困るのだが、実際頻発してしまう。

特に手袋は片方だけ無くしてしまうことが多い。いや、手袋を無くすときはまず片方だけだ。
今回の冬も、やってしまった。
前回の冬、愛用していた濃い紫色の手袋の片手を無くしてしまったので(この紛失は痛恨)、無印良品で買った黒のベロアっぽいものを買って使っていたのだがこれも片方を冬の間に無くしてしまった。
今回の冬こそ、無くさない、と心に誓って、昨冬と同じ黒の手袋を無印で買ったが、その誓いも虚しく数週間で、やはり片方なくしてしまった。
彼ら(彼女ら?)には、さよならも言っていない。そんなさよならをなん度もしているのだ。

もしかして、昨冬無くさなかった片方の手袋と合わせれば使えるのではないか、と淡い期待を持ったが、残縁ながら、昨冬無くしたのは左の手袋。今冬無くしたのも左の手袋。
カップルは成立しなかった。

新しいコレクション

かくして、私の細かな防寒具を入れる引き出しには、片方だけの手袋が、おそらく6つ以上はある。いや、もっとあるな。私が6つと思っているのなら、多分10以上はある。
私は自分の忘れ物や無くし物に関しては、少なめに数える傾向にある。そこのとは以前「隻手の手袋 引き出しに集いて 姦しい」に書いた(手袋のことも書いてます)ので、ぜひ読んでいただきたい。

50歳を過ぎて、何か集めるような趣味は無くなった、と書いたいたけど、どうやら意図せず、片手だけの手袋を集める趣味を始めたようだ。

片方だけ残された手袋を並べて、一度、じっくり眺めてみようと思う。
彼ら(彼女ら?)にもいろいろ言いたいことはあるはずだ。
眺めていれば、彼らの声が聞こえてくるかもしれない。

禅の公案に「両掌打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提せよ」というのがあるそうだ。
さて、私は隻手の声を聞くことができるのだろうか。

というより、もう、無くすなよっと。

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