エッセイ

絶品の蕎麦 —年越し蕎麦の夜に—

広島には蕎麦の文化がなかった。
いやあったのだろうが少なくとも私が小学生の低学年くらいまでは、私の周りにはあまり蕎麦を食べる人がいなかった。
何しろ年越しそばは、我が家では父親が作る中華そばだったくらいだ。
街には、うどん屋かお好み焼き屋が多く、私の記憶が正しければ、広島の繁華街の代表である本通り商店街やその周りには、蕎麦屋は一軒だけだった。

黒い蕎麦に驚いた少年時代

子供の頃、母親に連れられてその一軒の蕎麦屋に入ったことがある。
「そば」といっても私のイメージは中華そばなので、ラーメンの類が出てくると思っていた私は、黒い面が笊に乗って出てきたので、びっくりした。
実際食べてはみたが、美味いとは思わなかった。高度経済成長時代が始まる少し前の少年には、賛美するべき味ではなく、もう忘れてしまいたい古き因習の日本の風味だったのだと思う。

それが不思議なことに、大人になると蕎麦が好きになった。
会社員をしていた頃、30歳を過ぎたあたりから俄然蕎麦屋巡りを始めることになる。
中目黒にうまい店がある、並木の藪のせいろ蕎麦の出汁の付け方とか、十割蕎麦も好きだが更科の白っぽいのもオツだとか、今思えばまだ30歳なのにジジイのようなことを言っていた。
まあ、美味かったんだけどね。でも思い出すと顔から火が出る気がする。

つまり、蕎麦に対しては子供の頃に拒否し過ぎていて耐性がなく、大人になって蕎麦を知りやられてしまったのだ。

会津若松で出会った美しく美味い蕎麦

仕事仲間と会津若松にスキーに行ったことがある。仲間のEが会津若松の出身だったからだ。まだ携帯電話はなく、それでもカッコつけてトランシーバーをみんなで持ってゲレンデで連絡を取り合っていた。「私をスキーに連れてって」の頃だ。これも今思うと恥ずかしいけどな。
スキーを楽しんで地元の温泉宿に泊まり、翌日のことである。

昼飯に何を食べるか、という相談になった。
一緒にスキーに行った仲間の中に地元出身のEのお勧めは、喜多方ラーメンと蕎麦屋の二択だった。
どちらのカテゴリーの中でも絶品を提供する唯一無二の一店を紹介でき、しかも顔が効くと。
仲間の多くは、喜多方ラーメンを支持した。私もその一人だった。
では、喜多方ラーメンで、ということになるかと思ったら、これがそうはならない。
提案者のEが強く固くなに蕎麦屋を推したのだ。そして譲らない。
そこまでEが言うならば、と言うことで、みんなは蕎麦屋で昼飯をいただくことになった。

その蕎麦屋はここではK屋としておこう。

これはオーバーではなく、それまで生きてきた人生の中で、一番美味かった。
店主の説明によれば、蕎麦の実を外側を削って作った蕎麦の粉を練り上げて作った蕎麦であるとのこと。
半透明で向こうが好きて見えるのだ。
雑味のないそれでいて香り高い高貴な味は、誠に上品で経験したことのない美味さだった。

透明の蕎麦、再び

それから数年後。
東京である友人と話していて、昼に何を食べるか、という話になった。
「美味い蕎麦が食べたい」というので、その会津若松の蕎麦の話をすると「どうしてもそのそばを食べたい」ということになり
会津若松に向かうことにした。
件の蕎麦は蕎麦の実を削るわけだから1日に提供される量が少ない。
私は蕎麦屋に電話を入れて、2人分を予約した。その時11時くらいだっただろうか。3時間くらいかかるとして14時にお店には入れると伝えた。

その蕎麦屋は佇まいも変わらず会津若松の街の風景に溶け込み、店に入れば蕎麦と出汁の香りが漂っていた。
友人と私は席に座り、2枚の笊が運ばれてきた。
蕎麦は見事に透き通っている。「これこれ」。

ところが。
蕎麦を手繰ろうとして箸を入れ、蕎麦の十数本程度をつまみ上げようとしたら、蕎麦全体が固まったまま浮き上がってしまった。まるでUFOが離陸するような感じで。
日本蕎麦UFOである。
蕎麦を笊に盛ってからしばらく時間が経ってしまったらしく、透明の蕎麦はザルの上で一塊になってしまったのだ。
店主は事情を説明してくれた。
透明の蕎麦を打つ粉はそれほど量がなく、朝一気に蕎麦にしてしまわなければダメなのだそうだ。いのち短し恋せよ少女、ということころか。
あの時の風味を体験することはできなかったが、それでも透明の蕎麦は美味かった。
また店主からじっくりと蕎麦に関するお話も伺うことができて、それはそれで充実した体験をさせていただいた。
友人はその後、数週間後にその蕎麦屋を再訪し、透明の蕎麦を食べたそうだ。その蕎麦の味は、今でもナンバーワン、だそうである。

さて、今夜は大晦日。
皆さんはどんな年越し蕎麦を食べるのでしょうか。
良いお年を。

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