迎え火の日に、弾丸で広島まで、母の新盆の墓参りに行ってきた。
母が他界して、もうすぐ1年。母が生きた95年と9ヶ月の95分の1が過ぎてしまった。
よく、電話がかかってきた。LINEも送られてきた。煩わしかったけど
母は、生前は90歳を過ぎても、スマフォやLINEを駆使して、多くの人と会話を楽しんでいた。
まあ、迷惑に感じていた人も多かったかもしれない。特に用もないのにある人から頻繁に連絡がくるのは煩わしいものだ。
実は僕も、煩わしかった。仕事をしてる時でも構わず、母のLINEは来るし、着信も頻繁にあった。
こちらにゆとりがある時は、相手もしたが、会議中(だいたいリモートだけど)の時などは、邪険に扱った。「今、会議中なんよ。大切なことか?」と。
今思えば、何と高慢だったのだろう、僕は。
早送りの映像を見るように、衰えていく母
数年前から、母は散歩中によく転ぶようになった。ある時肩甲骨を折ってしまい入院した。
タイミングも良くなく、新型コロナ禍となってしまった。
母と相談し、退院と同時に特養の施設に入ることにした。
仕方なかったとはいえ、これが母の寿命を短くしたと思っている。
何しろ新型コロナ禍であるから外に出れない。
母が92歳くらいまで元気だったのは、たとえ転んでも散歩をしていたからだと思う。歩くことが元気につながっていた。
だけど、施設では無理だった。外に出ることすら難しかった(新型コロナ禍だったので)。
母は、まるで早送りの動画を見るかのように、衰えていった。
僕は、母に会うために、1ヶ月に1度くらい広島に帰っていた。
母は、少なくとも100歳までは必ず生きる、と会うたびに宣言していた。
一般的にはもう十分に長生きをしていた母である。それでも、長生きして欲しいのが息子である僕の想いだった。が、一方で、衰えていく姿を会うたびに見てしまい、胸が締め付けられた。
それでも、昨年の春までは、変わりなく頻繁に電話がかかってきていた。LINEも送られてきた。
が、初夏を迎える頃から、その頻度が、2日に1度になり、1週間に1度くらいになった。
5月のことだっただろうか。
なかなかかかってこなくなってきていた母からの電話が、私のスマフォを震わせた。
ただ、その時、僕はバスに乗っていた。
バスの中だけど、滅多にかかってこなくなってしまった母からの電話。ええい、出よう、とボタンを押したが、残念ながら、電話は切れていた。
僕は次の停留所で降りて、母にすぐ折り返した。
だけど、虚しくコールを続けるだけだった。
その数ヶ月後に、母は他界する。
僕は死に目には会えなかったが、想像はつく。
母の命日は9月12日。
その前の月の8月の下旬に母と最後の会話を交わした。
一緒に会った姉たちは、「あの時はまだ元気だったのに」と言うが、僕はもう、これが最後かもしれないと思ったし、きっと母もそう感じていたと思う。
最後まで、母は僕に優しかった
僕は母が大好きだったから、母が亡くなったら悲しいだろうな、と子供の頃から想像していた。
が、実際亡くなってみると、思いの外悲しくはない。寂しいけど。
父が、家族のことを思ってさよならしたように(僕の想像)、
母は、僕が悲しまなくてもいいように、衰えていく姿を早送りで僕に見せてくれたに違いない。
そして悲しくないようにおまじないをかけてくれたのだ。
でも、そのおまじないは、いつかは解ける。
その時は、泣きながら、母の無償の愛を感じることだろう。
