エッセイ

野中サンハウスで「好きならずにいられない」は、もう2度と聴くことはできないんだな

僕の故郷の広島へは、月に1度程度は帰っていた。といってもそれは母が生きていた去年の夏の終わりまで。
広島に帰った時は、ほぼ間違いなく訪れていた場所がある。
サンフレッチェ広島のスタジアム。3年前までは広域公園のエディオンスタジアム。2年前からはエディオンピースウイング広島。
サンフレッチェ広島が大好きなので、母に会いに帰る時はサッカーを見に行っていた。いや、逆かも知れない。母に会うことを言い訳にしてサッカーを見に行っていたというべきか。

僕は、お酒を飲まないけど、サッカーを見た後に時間があれば、顔を出す飲み屋さんがあった。
知る人ぞ知る、流川の野中サンハウスだ。

レコードバー野中サンハウス

流川は怪しい地域だ。怪しいと感じるということは、魅力たっぷりということでもある。
中央通りから新天地公園にを過ぎて少し右に行ったところのビルにその店はあった。
階段を上がりドアを恐る恐る開けると正面にはカウンター。そして壁3面にはびっしりとレコードが格納されている。

マスターは野中喜雄さん。地元のマスコミでならした面白いおじさん。
その夜の雰囲気に合わせて、あるいは新しい気分を作るように3方の壁からレコードを選んで音楽をかけた。店の中は、野中さんの思い通りかどうかはわからないが、ゆったりとグルーヴする良い感じの空気を漂わせていた。

蓄音機があった。
気分が乗ると、あるいは大切な客が入ると、その蓄音機の蓋を開け、レコードを回した。
僕は、プレスリーの好きにならずにいられない、を聴かせてもらったのが最も記憶と印象に残っている。
エルビスが、そこにいるようだった。
デジタルの音より遥かに再現性が高いように感じた。

その夏、野中サンハウスで一人の女性と遭遇した

3年前だったと思う。
少し早めの時刻に野中サンハウスの扉を開けたら、一人の女性がすでにカウンターに座っていた。
「おおーー、丁度、伊知郎さんの話をしていたんですよ」
と嘘のような本当の話。
彼女は僕が数年前に仕事をしていた会社にその頃入社したらしく、いろんな地域に出張があり、その夜は山口に仕事で行く途中、広島に寄ったらしい。

その日は、珍しく、お客さんが少なくて、野中さんと彼女と僕と3人で色々な話をした。
主に仕事の話だったけど。

店を出たのは僕が先だった。
LINEの交換をしたが、とは言え何か交換する情報もなかったので、普通に疎遠になっていった。

去年の冬、その彼女から突然、LINEが来た。
「新しい事業を始めたので、そのヒントが欲しくて」
「今夜、広島に仕事で入りますので、野中サンハウスで会いませんか」と。

どうやら彼女は僕が広島に住んでいると勘違いしていたらしい。
「僕は、広島には住んでないので、今日は無理ですね」
「そして、実は野中さん、この前倒れて、リハビリ中で店は今閉まってるんですよ」

そして野中さんんは、‘今年の‘春が来る前に、亡くなった。

僕も、母が去年の秋に亡くなったので広島に帰ることは少なくなるだろう。

広島に帰る理由が、少なくなっていく。

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