エッセイ

静寂にパチパチパチと響く音は、お前は親孝行したのかと問うてくる

パチパチパチ。 深夜の部屋に、キーボードを叩く音が響く。

そのリズムがわずかでも狂うのが、私はどうにも我慢できない。 爪が少しでも伸びてくると、プラスチックのキーに当たるあの硬質な感触が、指先から神経を逆撫でするように伝わってくる。爪が当たれば、キーの表面にプリントされたアルファベットたちも、少しずつ削り取られていくような気がしてならないのだ。

「A」や「S」の文字が薄れ、やがて消えてしまうことへの妙な恐怖。それはまるで、日々の営みの痕跡が摩耗していくことへの焦燥にも似ているかもしれない。
だから私は、頻繁に爪を切る。白い部分が残らないほどに、丁寧に、執拗に。

ああ、そういえば、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズの踊る人形の謎は、こんなことがきっかけで暗号が解けるのだったな。
小学校高学年の頃だっただろうか。友達の家に遊びに行くのも、自分の自転車の買い物籠にポプラ車のシャーロック・ホームズシリーズの本を入れて移動していたのを思い出す。それだけシャーロック・ホームズが好きだった。ルパンシリーズも好きだったけど。

パチン。 爪切りの冷たい金属音が、夜の空気に吸い込まれる。

かつて、母が生きていた頃は違った。 夜に爪を切ろうとすると、ふと手が止まったものだ。「夜爪(よづめ)を切ると、親の死に目に会えない」。そんな古いことわざが、頭の片隅をよぎるからだ。

もちろん、本気でその言葉を信じていたわけではない。迷信だということは分かっている。それでも、爪切りの刃を指に当てた瞬間、遠くに住む母の顔が浮かび、なんとなくバツが悪くなって、私は爪切りを引き出しに戻していた。それは、信心深さというよりも、母に対する不器用な遠慮のようなものだったのかもしれない。

いま、その躊躇いはない。 母を見送った今、夜に爪を切ることを止める理由は消滅した。私はいつでも、自分が切りたいときに、パチン、パチンと音を立てることができる。

切り揃えられた短い爪を眺めながら、ふと考える。 以前から心のどこかで燻っていた疑問が、静寂の中に浮かび上がる。

「親の死に目に会えない」こと。それは、本当に親不孝なのだろうか。

ドラマや小説では、家族全員に見守られ、感謝の言葉と共に息を引き取る瞬間が「美しい最期」として描かれる。間に合わなかった者は、廊下で崩れ落ち、悔恨の涙を流す。それが情愛の証であるかのように。

けれど、死に目に会えるかどうかは、結局のところ、ただの偶然に過ぎないのではないか。信号待ちの長さや、新幹線のダイヤ、あるいは仕事の都合。そんな些細な時間の綾が、最期の瞬間に立ち会えるか否かを分ける。

当たり前だけど親不孝かどうかの分岐点は、心臓が止まるその「点」にはない。

本当に大切なのは、その点が打たれる前に描かれた、長い長い「線」の方なのだ。 元気だった頃に交わした言葉。電話越しに聞いた笑い声。送られてきた荷物の、ガムテープの丁寧な貼り方。あるいは、夜に爪を切ることをためらわせた、その微かな想い。そうした日々の積み重ねの中にこそ、親子という関係があったのだろう。

じゃあ、僕は 親孝行だったのか?
まあ、そうだよな、親不孝者だったよな。

母が亡くなって1年と3ヶ月。
もっともっと、いろんな話をすればよかったと思う。
親に恩返しはできない。それほどに父や母から受けた恩は大きすぎる。
だから受けたその恩を、少しでも下の世代に送ろうとは思っている。

爪を整えた指先で、再びキーボードに触れる。 カチ、カチ。 今度は爪の当たる不快な音はしない。指の腹がしっかりとキーを捉え、文字が画面に刻まれていく。

私はキーボードの文字が剥がれるのを恐れている。 けれど、母との記憶は、どんなに爪が当たっても、決して剥がれ落ちることはないだろう。

深夜のリビングで一人、爪を切る。 その音はもう、誰への遠慮もなく、ただ私の日常の一部として、静かに響いて、紡ぎ出されたのは、この文章なのです。

 

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