桜の花は、ここ数年ずいぶん早く咲くようになった。3月の下旬に咲くこともここ数年あったが、今年は4月に入るくらいに満開を迎えたらしい。
若い頃はソメイヨシノの下で大酒を飲んで大騒ぎするのが大好きだったが、今はもうそんな余力は残っていない。
春の花で好きなのは辛夷。桜より少し前に咲く。
高校の頃、堀辰雄の信濃路・大和路という、あれは小説だったのだろうか。とにかくその文庫本の中の短い文章を読んで、僕は辛夷が好きになった。その時は、辛夷という樹も花も見たことも聞いたこともなかったのに。
山間を走る列車に乗るおそらく夫婦の会話。妻は、窓の向こうの山肌に辛夷の花が咲いているのという。夫はそれを見つけることができない。そんなたわいのない会話が、高校生の僕には、この二人が眩しいほど魅力的に感じてしまった。
いや、あまりにも読み込めていないのであろう。もっと深い伏線や伝えたいことがあったのだろう。
でも、少年だった僕には、とても素敵な二人に思えたのだ。
そして、僕は辛夷が好きになった。
繰り返すけど、どんな樹とも花とも知らないのに。
まだ、みんなに家には黒い電話しかなかった時代で、Googleで検索すればわかるという時代ではない。どうやって調べたか記憶にないが、辛夷の花を初めて見た時は、想像していた花よりも、はるかに美しい造形と妙なる白、ああ、これが辛夷の花なんだ、と改めて心が動いたことを覚えている。
でも、それがいつのことだったか覚えていない。
30代の頃は、家を出たところに都内でも有名な公園の近くに住んでいて、通勤時には必ずその公園を通っていた。
その季節には多くの花見客で賑わうその公園も、辛夷の樹が植っていて桜の少し前に、奥ゆかしさの中に少しだけ可憐さを抱いた花を咲かせた。
それから、今に至るまで、必ずと言っていいほど、僕の近くには辛夷があって春の到来を教えてくれる。
虎ノ門に勤務していた頃も
新橋の駅から勤務先に歩く大通りの並木が辛夷だったので、毎年「ああ辛夷が咲いたなあ」とその年も辛夷を見ることができたことを安堵したものだ。
定年してからは、春先に辛夷を見ることがなくなたように思う。染井吉野のようにそこかしこに植っているものでもなく、ただ歩いていたら辛夷に出会うということは毎年あるほどのものではない。
去年のことだ。
3月のこの時期だった。
仕事で京都に行くことがあり、もう、数十年も会っていない学生時代の女性の友人に会うことになった。
その友人の出会いは、もう50年にはならないけど、でもそれくらい前の話だ。
出会いは夜行列車の中だった。
あの頃は、まだ日本国有鉄道=国鉄の時代で、東京駅から大垣まで、夜行の普通列車が一本走っていた、23時40分くらいの発車だったと思う。何も言わずに東京発大垣行きといえば、その列車のことだった。
僕は、故郷は広島なんだけど、その広島に帰るのに、節約のためにその列車で帰ることがたまにあった。
その夜も、僕は広島に帰るために、東京駅からその列車に乗った。
僕は大学1年生だったと思う。その夜行列車、といっても寝台車ではなく、ボックスベンチシートの座る部分が外れてそれを床に置きそれを布団がわりにして寝るという方式だった。まあ、盆や正月でなければだいたい車両は空いていたので、そんな芸当ができたわけだ。いや、盆や正月にその大垣行きの夜行で帰ったことがないから、その時混んでいたかどうかはわからないな。
まだ、旅が日本に残っていた時代の話だ。宿代を節約するために、駅舎に寝袋で寝る旅人たちもいた。
で、その夜行列車だ。そこで僕は彼女と出会った。
僕の隣のボックスに彼女はいた。
その大垣行きに若い女性が一人で乗ることはまずない。
だから東京でボックスに座って隣を見た時、驚いた。
ボブカットなんだろうけどそれよりおかっぱという方が近い。地味だけどどこかに可愛らしさを秘めた少女のような人だった。身体も華奢で、顔の造作も全部小ぶりだったが、瞳は大きく黒かった。
列車は定刻通りに出発。東京駅を出て、新橋に止まり、品川を出ると、乗客は夜行列車モードになる。
みんなベンチシートを外して簡易ベッドを作り始めるのだ。
僕の隣のボックスでも、彼女がベンチシートを持ち上げようとしていた。
僕はできるだけ平静を装って「お手伝いしますよ」と声をかけた。
彼女は僕に警戒心を抱きながらも、僕の提案を受け入れた。
「お願いできますか」
関西方面のイントネーションだった。
ベンチシートをベッドにセットし終えて、何も話さないのも不自然かと思い、いや、違うな。少しチャンスかな、と思ったのが正直なところか。
「関西の方ですか?」と会話を続けた。
「京都なんです」と彼女は答えた。
その頃、僕はちょうど「京都よ、わが情念のはるかな飛翔を支えよ」という小説を読んでいて、それにまつわる話やそれから彼女がなぜこの夜行列車で帰っているのか、ということなど、そして、まあ彼女はつまらなかったかもしれないけど、僕の話などもしたかと思う。
2時間くらい話して、流石にそれぞれ自分のボックスで寝ることになった。
その時に話した色々なことは、ほとんど忘れたし、ここでは書けないこともある。
でも、彼女がなぜ大垣行きに乗っていたのかは、次のような理由だった。
彼女は、訳あって医者を目指していて、受験に失敗し浪人中。そんな状況で親に新幹線代を出してもらうわけにいかない、ということだった。
僕は目を覚ますと、もう、大垣は近かった。
大垣で西明石行きに乗り換える。
彼女も僕も乗り換えた。また少し話をして、もう少し寝た。
今度は同じボックスに斜向かいに座って寝た。
起きたらもう、列車は京都を過ぎていた。
彼女はいなかった。
彼女と再会するのは、ネット上でのことだ。
今から6、7年くらい前になるのか?コロナ禍の中だった。
あの頃は外に出ることはできず、オンラインで色々な活動が盛んに行われていた。
僕もなんとなく知り合いが参加していたので、お寺のネットワークで、瞑想したりヨガをしたりする朝の活動に参加していた。
そこに彼女がいた。
まさかとは思ったが、声をかけた。
「随分前の話だけど、大垣行きで一緒でしたよね?」
彼女も僕のことをよく覚えていてくれた。
SNSでやり取りをたまにして、その翌年、国立大学の医学部に合格し、今でも小児科の医者をやっているとのことだ。
あの黒い大きな瞳は、美しくもあったが強い意志が宿ってもいた。
さて、去年の春の話だ。
彼女と京都で待ち合わせ。
再開だ。
おかっぱヘアスタイルで華奢だったけど黒目をキョロキョロさせていた彼女に45年の時が流れた。もちろん僕もだ。
わずか数時間、大垣行きの電車で一緒になり話しをした。それだけのご縁の女性だった。
鎌倉から京都へは、もちろん新幹線で行った。もう、大垣行きは走ってないからね。
待ち合わせは、お互いの拠点から丁度同じくらいの距離にあるという理由で笹屋通沿いにある等持院の門のところにした。
嵐電のの等持院で降りて、北へ京の普通の道を5分程度歩く。いい天気の暖かい日。少しだけ風が吹いていた。
等持院の門が見えた。彼女は、少し艶のある白いスプリングコートを着て、門の下に凛と立っていた。
おかっぱヘアスタイルではなかったが、ショートカットの黒髪が春の風に少しだけ揺れていた。
微笑みながら、首を傾げて「ほんとお久しぶり」と僕に言った。
等持院の門の手前には、丁度、辛夷が花盛りだった。
でもね。その彼女の名前は、桜(さくら)なんですよね。

