エッセイ

16歳からずっと知らなかった、50年近く過ぎて初めて知った。涙が滲んできた

昨年の晩秋に上総の一宮にいくことがあり、駅の近くの街道沿いに明治時代中期に建てられた商家を活かした寿屋本店というカフェで、知り合いと打ち合わせをした。彼がこのカフェを根城にしているのだ。

かつての鰹節の卸をしていたというこのお店は、街道沿い手前のカフェの部分より、その奥が広く、いろんなイベントに貸し出している。
その日は、百人一首の勉強会が開かれていた。集まった人たちは私より年上だと思うが、熱心なことだ。

私は、百人一首の源平合戦を正月によくやったので、百人一首には親しんでいる方だと思っていた。

打ち合わせを終えて、鎌倉に帰ってから、私も、もう遠い彼方に行ってしまった上の句と下の句の記憶を合わせてみようと高校生の時に学校で交わされた百人一首の本を引っ張り出しておさらいをすることにした。
高校1年生の時、夏休みの宿題で百人一首を覚えさせられた。二学期になるとクラス対抗の百人一首の大会があった。
宿題と言ったって真面目に覚えてはいないから、大会の結果は散々だったと思うがその記憶ももう遠い。

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも

「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かも」

これは安倍仲麿が詠んだそうだ。

百人一首の宿題が出た高校1年の時、つまり16歳の時、この歌と出会ってからついこの間まで、これは安倍仲麿が奈良の地にいて三笠山に月が上った様を詠んだ歌だと思っていた。

何なら源平合戦に勝つために、天の原、三笠の山と、地名のような言葉を続けて覚えようとしていた。半世紀近く、この歌の背景を知らずに過ごしてきた。

この歌は、唐の明州(今の寧波)で詠まれている。奈良ではないのだ。

安倍仲麿は16歳の頃、遣唐使として唐に入った。玄宗皇帝に仕え、李白や王維らとも交流したという。
それから40年近く唐で過ごし、いよいよ帰朝することになりその旅の途中で詠んだ歌とのことだ。
それを知ると、先程の歌の私の解釈とも言えぬ理解の浅はかさが身に沁みる。

望郷というには、長く、遠く

そして、彼の帰朝は叶わなかった。

帰朝を目指したその船は難船し安南(インドシナ)にたどり着く。
再び唐に戻り、その生涯を終えたという。

安倍仲麿が唐に渡ったのは、16歳の時。

彼は唐で多くのことを学び、その喜びに震えたのではないか。
しかしその喜びを智慧を故郷に持ち帰れなかった。
仕方のないこととはいえ、どのような想いを胸に抱いていたのだろうか。私のような凡夫が類推することができるような人ではない。

この事実を知ってから、この歌を読み上げる時は、この私でも、心が震えるようになった。

故郷に帰ったとて

私の母は昨年の暮れで94歳になった。生まれたからずっと広島に住んでいる。一昨年の秋に、よく転ぶようになり施設に入った。
ただ、元気である。少し短期の記憶が曖昧なところもあるが、趣味のレベルを超えた短歌を今も詠んでいる。
彼女の歌集は三冊ほど本になって出版されている

この前の年末年始に、私も広島に帰ったが、今は母に会えない。
新型コロナウイルスの影響で、高齢者が多い施設に入ることが許されていない。

故郷に帰っても、そこにいる母に会えない。

安倍仲麿ほどのスケールではないが、もしかしたら望郷の歌が詠めるのではないか、と思うことがある。
が、そのあたりは母に任せておこう。
きっと、外に出れないもどかしさや、私たち家族に会えないことなどを、毎日短歌にしているに違いないから。

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